和歌山県のとある場所、人煙まれな山中に、戦後すぐに廃業した鉱泉宿跡があるとのこと。
幅員の狭い舗装路から林道に入りますが、進んですぐ、車での走行がムリなくらいの悪路に。
ここからは徒歩で向かいます。
左は渓谷、右は岩盤剥き出しの林道でして、ところどころ崖崩れがあるため、歩きづらいぞ。
こんな感じで林道が崩れて、標識の意味をなしていないし。
途中から渓谷側に降りて行くため、獣道みたいに分かりにくい杣道に入って行きます。
この先の杣道はさらにキケン。
斜面に作られた落ち葉が敷き詰められた杣道は、ところどころ崩れて斜めになっており、滑ると谷に落ちて行くwww
木の根っこをしっかり握って、進んでいきます。
登っては下り、尾根を越えては谷を渡る。
川が見えて来ましたので、ここを渡渉します。
すると、その先には古い石垣が段々畑のように連なっているのが見えてきました。
ここが鉱泉宿跡、着いた〜!
よくこんな山中に、7・8段も続く石垣を作ったもんだ。
今は木々が生い茂っており、往年の様子は伺えられません。
写真で伝わりにくいですが、ラピュタ感ハンパない。
よーし、この上にお目当てのモノがあるはず、行くぞー!
「ゔゔゔゔゔゔゔゔゔゔぅぅぅ〜」
ん?なんか聞こえた?
「ゔゔゔゔゔゔゔゔゔゔぅぅぅ〜」
ま、また聞こえた…
下の写真の左上、おそらく20メートルくらい離れたところから聞こえます。
姿はまったく見えませんが、やべっ、クマの咆哮だ…
鳴き声の方角が、少しずつ右側に移動してる。
詰んだよ、クマだよ(号泣)。
まさかクマに合わないだろうと、熊よけスプレー持って来てないし。
急いでツレと、クマがこちらに来た際の対策を打ち合わせ。
その後も低い唸り声が断続的に山に響きますが、ゆっくりゆっくり右上へ右上へと移動していく。
心臓バクバク状態が続きます。
その後、5分か10分か、時間の経過は分からないけど、右の山の上方に消えていきました…
去って行ってくれた…ふぅぅぅ(汗)。
しばらくしても戻ってくる気配はないけど、このまま石垣を登って行くのはキケンと判断して、左側に大きく迂回して川沿いから上に向かって行くことに。
熊が去った山手の方を注視しながら川を少し上ると、コンクリートの枡が見えて来た。
あれだ!
熊のおかげで、結果的にこっちのルートで合ってたよ。
コンクリの枡はそれほど古くなさそうな佇まいで、鉱泉宿の時代ではないぽいけど、昭和時代には設置されていたとのこと。
今も誰か管理してると思われます。
枡の奥からたくさんのホースがつながっており、その奥の渓岸の岩肌に向かってます。
岩肌にブスブスとホースがブッ刺さって、なんか異様な風景。
映画マトリックスで、チューブだらけのネオが目覚めて、カプセルから出てくるとこ思い出したw
岩肌のチューブは栄養を吸い取ってるのではなく、湧出する鉱泉を引っ張るため。
一部岩肌には漏れた湯の花が見てとれます。
さて、コンクリ枡の上には蓋がされてますので、ゆっくりと捲り上げると、フワァと硫化水素の良い匂いが。
ホースからは鉱泉が垂れ流されており、枡の底にはたくさんの白い湯の花がゆらめいてます。
温度は6.8℃とかなり冷たく、口に含むと優しいけどしっかりとした硫化水素臭が広がります。
枡の鉱泉は、底の壁からホースで外に出てきます。
ホースは川に沿って下流に向かってますが、どこまで繋がってのかな?
ここらから近くの小さな集落までは、直線距離でも2km弱。
もしかしたら、その集落でこの鉱泉を利用しているのかもしれませんが、調べた限り、そのような情報はなく、よく分かんないです。
周囲を見渡しますと、コンクリ升の隣の石垣の上方、遠くにお墓が。
その手前には瓦が散乱しており、当時の宿、または住居があったのだと思われます。
古びれた石の階段を登っていきます。
倒れたお墓も含めて六基の墓石と四体の石仏があり、もう誰もお参りに来ていない感じ。
全ての墓石には同じ苗字が書かれており、ここの鉱泉と同じ名前。
代々宿を営んでおられた方々ですね。
ここの開湯は江戸時代とのこと、一つの墓碑には大正20年没と読み取れました。
目的を達成し、クマがまだ近くにいるかもしれないので、早々に退散。
帰りの杣道から最後に見た、土に還りつつある遺構。
当時の宿の人々の生活や、鉱泉を求めてはるばる来ていた湯治客を想像すると、うら寂しい気持ちになりました。
ちなみに帰り際、100kgくらいありそうな大きなイノシシが、目の前を猛ダッシュで横切っていきました。
行かれる方は装備万端で。